理系Sの牝奴隷には言えない話
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このような話になると、思いは尽きないですね。 皆さんのコメントもとても興味深いです。でも長くなったのでこちらに 書くことにしました。 りんさんも書かれておりますが、実は私も自分の行為を含め、 SMや主従の持つ茶番的な側面を常に訝りながら、それでもそれが 必要でそこに身を置いているのだと認識しております。 私の場合ですが、だらかこそそこで重要なのは役割や関係性より先ずは そのような行為を通じて主従ともに「性的に興奮し満たされること」なのです。 ドロドロと勝手に湧き上がる性的な欲求を、共に受容しクリアしていくことが大事で、 そのために、信頼や特殊な関係性が必要になってくるのだと思っているのです。 そのために、言いなりにし、嫌がることや躊躇するようなことを命じ、縛り、鞭打ち、 追い詰めているのだと私は思っています。 まあ結局は同じことかも知れませんけど、主と呼ばれるものとしてはちょっと ひねくれた思考かも知れません。 電車の件などは、相手を大切にするというよりは、他者の目があるので私は 奴隷を座らせます。格好が悪いと思われそうなことは避けたいのです。 「恥」は日常でも、SMでも、とても重要なものです。 だから、一般的には怒られそうな文言、「女らしさ」というのも、私にはとても 重要なのです(性的興奮という意味でも)。 中学生の頃、両親の離婚で別居していた母と久しぶりに会ったとき、 「女は弱いものだから、容易に傷つけてはいけない」ということを突然言われ、 自分が女を傷つけ得るものだということに驚愕し、また、ではどのように立ち回りうるか ということで苦心し、それがまるで呪いのように長い間大きく影響を及ぼすことになったのですが、 それを解き、己を安息させるものが、実はSMだったりするのです。 このような次第なので、私は自分を軟弱な主だと思うこともありますし、また奴隷も 自分はひたすら被虐だけを求めている訳ではないので邪道かも知れないと時々言っています。 ま、それで思い煩うことはありませんけど、でも本当に人それぞれだなとしみじみ思いました。
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